(しょうぞくたばりしき)
天神祭の神事始めの行事で、6月下旬の吉日、天神祭で重要な諸役「神童(しんどう)」「猿田彦(さるたひこ)」「随身(ずいしん)」「牛曳童児(うしひきどうじ)」が天満宮宮司から任命され、当日着装する装束が渡される儀式が行われます。
この日より、辞令を受けた氏子は「斎戒(さいかい)」といわれる祭りの期間中に慎むことやしてはならないことを言い渡されます。また、この日から自宅の玄関にしめ縄と掛け札をつけ、神札(おふだ)を祀り、毎日拝礼します。
装束賜式から天神祭当日までの間、してはならないこと
一、葬儀に参列すること
一、けんか・もめ事などの争い事
一、その他不浄に関与すること
7月21日より当日までの厳守事項
一、体調を整え心身を平穏に保つこと
一、食事に四つ足の獣(牛・豚)・ねぎ、にんにくを避けること(※魚・鶏肉は可)
一、入浴を欠かさず身体を清浄に保つこと
装束を賜った後は、それぞれの装束を身に付けて本殿に昇殿し、大阪天満宮の大神様たちにご奉告申し上げる「社参之儀」が行われます。
(てんまてんじんたなばたまつり)
7月7日に行われる伝統行事で、大阪天満宮の本殿前に巨大な「茅の輪」が設けられ、参拝客が茅の輪をくぐりながら所願成就を祈願します。同祭に合わせて、天神橋2・3丁目商店街主催の「星愛七夕まつり」も開催されます。
(よしほうのうしき)
近江八幡和船観光協同組合によって、滋賀・近江八幡市にある“よしの大龍神”を祀るお社付近に生えた「青葦(あおよし)」が刈られ、近江八幡から大阪天満宮へと運ばれ、7月15日に奉納式が行われます。この青葦は、大阪天満宮境内の大手門前に飾り付けられる大茅の輪に用いられます。
(しじょうりゅうそうけぎしきほうちょうほうのう)
第五十八代、光孝天皇の頃、四条山蔭中納言藤原政朝卿がそれまでの宮中料理の諸作法を一つの方式に整えられ四条流儀式庖丁と命名されました。
古式によりますと賓客の前に俎(まないた)を持ち出して主人、又は調理に秀でた者が右手に庖丁、左手に真魚箸を持ち魚には手を触れずに目の前で調理して見せるのを庖丁式といい、これを饗応の第一としたものでした。
その後、足利三代将軍義満公の頃、山蔭、園部、大草、進士、生間の諸流が派生しましたがこれら諸流派の本流は四条流です
(おはぐるまじゅんこう)
7月23日10:30、本殿にて御神霊を御羽車にお還しする神事を行った後、神輿を担いで大阪天満宮の表門から出発し、天神橋筋商店街を巡行します。途中、天神橋筋六丁目に設けられた祭場にて、天神祭の無事と商店街の商売繁盛を祈願する駐輦祭が行われ、大阪天満宮に戻り還御祭が斎行されます。
昭和56年(1981)、地域振興と大阪文化の高揚、明るく楽しい街づくりを目指して、天神橋筋商店街の四町会、四番街、天四北商店街、天五商店街、天六商店街が協力し、大阪天満宮「御羽車講」巡行の一つとして“第1回天神祭ギャルみこし”が開催されました。例年、15〜30歳(2023年はコロナ禍で4年ぶりの開催で例外として年齢募集枠33歳まで)の女性たちの中から選ばれた80名が重さ約200キロの神輿2基を交代で担ぎ、天神橋筋6丁目から大阪天満宮までの一往復半、約4キロを巡行します。正式名称「天神祭女性御神輿」は、大阪で有名になるにつれ、いつの頃からか「ギャルみこし」と呼ばれるようになりました。
鳳講・天神講獅子の両講がANAクラウンプラザホテル大阪がある北新地エリアを巡行します。
(よいみやさい)
7月24日午前7時45分、大阪天満宮本殿にて宵宮祭が始まります。大祭の準備を終え、翌日の大祭を行うことを神前に奉告し、鉾流によって御神慮が示されるようお願いします。
※御神慮とは、神の思し召しのこと。
(ほこながしぎょうれつ)
7月24日午前8時30分、大阪天満宮の表門から出発した神官や時代衣装をまとった約200人が、天満警察署前の鉾流橋に設けられた祭場へ向かって、行列行進します。
(ほこながししんじ)
天神祭は、天暦5年(951)に水無月祓(みなづきはらえ)の神事として、社頭の浜から神鉾を流して漂着した場所を御旅所と定めて渡御したことに始まるとされています。この起源伝承の姿を伝えるのが鉾流神事です。現在行われている行事は、常設の御旅所ができた寛永21年(1644)以降に途絶えていたものを、昭和5年(1930)に復活させたものです。
宵宮の24日午前8時50分頃、天満宮からの行列が、堂島川にかかる鉾流し橋脇の祭場に向かいます。そこで神楽などを奏した後、参列者は人形(ひとがた)で身体を拭います。人形等を真菰に包んだ神職は、神鉾を持した神童とともに船に乗り込み、川の中央へ漕ぎ出して神鉾と菰の包みが流されます。祭典が終わると、参列者は鳥居に設けられた茅の輪をくぐり抜けます。天神祭はかつて天満天神御祓とも称され、半年間の罪穢を祓い去る大祓の行事ですが、夏の悪疫から逃れるという願いも込められているようです。
(あんぐうさい)
7月24日午前11時、大阪市西区千代崎にある大阪天満宮行宮(御旅所)にて、宮司による神事が執り行われます。また、子ども神輿もこの地を練り歩き、盛大に行われます。
(そうじじやまかげりゅうけいほうかいぎしきほうちょうほうのう)
宮中料理の諸作法の始祖である山蔭中納言を日本料理の祖神として崇敬するところから山蔭流が誕生しました。山蔭中納言が創建した総持寺(西国二十二番札所)が大阪府茨木市にあり、当寺奥の院にその御霊がまつられている処からここに庖丁式を修業する道場があります。現在では京奉会の修業を得た者が毎年、山蔭公の命日である四月十八日の御祭儀式に丁式を奉納し、その免許の許し状が当寺より授与されています。
大阪天満宮の境内にて、獅子舞や傘踊りなどを伝承する講社「天神講獅子」による華麗な舞が披露されます。幼い子どもから大人まで約500人による一団が大阪アメニティーパークや帝国ホテルの館内などを練り歩きます。
天神地区(現在の第2区周辺)の人たちによって伝承されている西上州に多い稲荷流獅子舞で、雄2頭、雌1頭の一人立ち3頭獅子です。 獅子は鳥総を飾った頭をつけ、タッツケ袴、白足袋、草鞋ばきで、腰太鼓をつけます。 元禄4年(1691)、落合宿で八幡宮再建の折、新町産の一本桐で獅子頭を新調したといわれています。
(どんどこぶねみやいり ほこながしかみほこほうかん)
中之島周辺から道頓堀川まで手漕ぎで縦横無尽に漕ぎ回り、祭りを盛り上げるのがどんどこ船です。鉾流神事で神童が流した神鉾をどんどこ船講の御鳥船(おとりぶね)によって回収した後、陸上げされたどんどこ船は、船ごと大阪天満宮に宮入し、神鉾奉還の儀式が執り行われます。
(すいじょうたきぎのう)
天神祭宵宮祭が行われる7月24日に合わせて、帝国ホテル前の大川の能船にて、18時30分頃より奉納水上薪能が開催されます。上演前には大阪天満宮講社連合会による大阪締めが行われます。
天神講による獅子舞が披露され、街を練り歩きます。その後ろから、傘踊り、四つ竹が続き、大阪天満宮へと宮入します。
(ほんみやさい)
25日13時30分より、大阪天満宮の本殿にて本宮祭が始まります。神職や巫女らが疫病退散などを祈願します。例年は氏子など一部の関係者しか立ち会えない厳かな神事ですが、令和2年(2020)は新型コロナウィルスの影響で渡御行事、奉納花火を含む神賑行事が中止になったことから、初めて本宮祭の神事がライブ配信されました。コロナ禍が明けた令和5年(2023)には例年通り本宮祭が開催されました。
神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちがお迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、神霊を奉安する御鳳輦(ごほうれん=御守護神様が御乗りになられた神輿)ですが、 この前後を地車、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、総勢3,000人余りの大行列が大阪天満宮から西天満地域~御堂筋~中之島を経由し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永9年(1780年)には84輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、1輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。
江戸時代、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先(へさき)に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾り立て、御旅所へ御迎えの船列を整えたといわれています。昭和12年(1937年)の船渡御列は、200隻に達したといわれていますが、現在は警備の都合もあり約100隻、総勢約12,000人乗船した船が往復約7キロの航路を渡御します。昭和28年(1953年)、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っています。
船渡御の行事途中には、大川の中ほどで、神様を乗せた船“御鳳輦奉安船(ごほうれんほうあんせん)”上で荘厳な神事が行われます。神様に氏子や市民の暮らしぶりを船上から見てもらい、御加護を祈願します。船上祭が行われる間、奉安船とすれ違う船は、賑やかな鳴り物を一時中断して静かにお迎えするのが慣例となっています。
本宮25日19:30頃、“御鳳輦奉安船”で行われる船上祭が終わると、菅原道真公に奉納するための花火が桜ノ宮公園と川崎公園から打ち上がります。約100隻もの船団が浮かぶ大川には篝火が浮かび上がり、約3,000発の花火が夜空を彩ります。
(かんぎょさい)
本宮25日22時頃、大阪天満宮の本殿にて「還御祭」の神事が執り行われます。菅原道真公の神霊を本殿に戻し、祭りの終了を告げる儀式が行われます。